Peynet’s Schedule on Aug

▪️店休日

16日(金)

▪️《特別企画》THINK! Leonard Bernstein

8月25日(日)21:30start

アメリカの作曲家であり、指揮者であり、教育者であった、レナード・バーンスタインの誕生日。

多民族国家で集合体としての文化をもたないアメリカに新しい音楽文化を築こうと活動した彼の哲学は、大船でBARを開業した私の想いに似たところを感じるのです。

去年から始めた企画です。どうぞ、この日限りの特別なカクテルと共に、バーンスタインの音楽をお楽しみ下さい。

演奏:バーンスタイン作【クラリネットソナタ】他

限定カクテル:【レナードバーンスタイン・パンチ(1,200)

Music Charge :1,500

BARism#190705

サザンカンフォートの憂い、145年前のクラフトリキュールニューオーリンズ発祥の人類にとって最も重要な文化的遺産を挙げるとしたら、『JAZZ』と『サザンカンフォート』だろう。近年、酒類業界ではクラフト物が流行っている。これは、上等で無難なものに飽きた市場と、禁酒法時代への憧れから生まれた流行、或いは、ウィスキーより短期間で商品化したい企業の色気ない陰謀であろう。企業だけでなく、バーテンダーが自分の店の為の独自の酒を作ったりもする。そんなクラフトというものは過去にもあった。1874年、ニューオーリンズのバーテンダー、マーティン・ヘロンがバーボンにフルーツやスパイスを添加してサザンカンフォートを作り出した。彼はミクソロジストの先駆けで、自作のサザンカンフォートをベースにカクテルを考案し売り出した。『セントルイス・カクテル』という。後にジャニス・ジョプリンが好み、ステージでも携えていたという話もサザンカンフォートの人気に一役買っているだろう。共に、荒い口当たりの中に感じる何処か甘美な芯のようなものがお似合いのコンビである。27歳でヘロイン中毒で死んだジャニスも、長生きしたならば丸くなっていたのだろうか。サザンカンフォートは、当時のジャニスが飲んだら失望するだろう程に、今は柔らかくなっている。元々は50度でバーボンから作られていたサザンカンフォートは、今や21度の中性スピリッツが主流になってしまった。市場のニーズと企業の思惑が一致した結果ではあるが、文化の破壊のように思えてならない。誰かが『JAZZは死んだ』と言っていたが、サザンカンフォートも死んでしまったのかもしれない。BARは時代遅れで良い。こういった文化を守ることができる数少ない場でもあるからである。だから敢えて言いたい。デートのツレに、“飲み易いもの”を薦めようとする紳士諸君。どうかそんな無粋で初心者染みたオーダーをしないでおくれ。そんなものは居酒屋かカジュアルバーに放っておけば良いのだ。人生、少しの苦味は必要だろう?それを共に味わえないようならきっと上手くはいかない。折角BARに来たのなら、骨太の本物の酒で試してみては如何だろう?心地良さだけを求めたならば、低アルコール化の先に酒の文化は失われてしまうだろう。サザンカンフォートを死なせてはならない。(西宮聖一朗)

Peynet’s Schedule on Jul.

▪️店休日

18日(木)、28(日)

▪️イベント

26日(金)4th Friday Night Concert

21:30start

pianist / 谷坂仁美

music charge / 1,000円

▪️《特別企画》THINK! Leonard Bernstein

8月25日(日)21:30start

アメリカの作曲家であり、指揮者であり、教育者であった、レナード・バーンスタインの誕生日。

個人的な思い入れなのだけれども、より多くの人にレナード・バーンスタインという人物を知ってもらいたく、去年から始めた企画。

演奏:バーンスタイン作【クラリネットソナタ】他

限定カクテル:【レナードバーンスタイン・パンチ】

Peynet’s Schedule on Jun

▪️店休日

6日(木)、16(日)、17日(

月)、30日(日)

▪️イベント

21日(金)4th Friday Night Concert @S.Bar Peynet

※今月は都合により第3金曜日の夜となります。

22日(土)、23日(日)茅ヶ崎映画祭にて、カクテル『雪国』提供 @ハスキーズギャラリー

30日(日)雨宮門下生演奏会にて、モーツァルトのクラリネットコンチェルト第1楽章演奏 @大和市文化創造拠点シリウス

BARism

カクテルを読む!味や見栄えだけではない、カクテルの愉しみ。1859年6月2日。安政五カ国条約に基づき、横浜は開港した。これを機に、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの役人や商人が横浜に駐在するようになる。今の関内は外国人の居留地として栄え、日本人は関外という地域に追いやられた。この頃は圧倒的に関内地域がハイカラであった。外国人と日本人は、居住地域も生活レベルも、きっちりと分けられていた。余談として少し後の話であるが、日本で最初のBARはこの地域で外国人相手の商売として誕生した。1890年の関内、現ニューグランドホテルの前身に位置付けられている横浜グランドホテルの新館にバー『シーガーディアン』が設置され、さらに後の1923年(関東大震災直後)には、関外(今の伊勢佐木町辺り)で、外交官であった田尾多三郎が世界を見聞してまわり開業した『カフェ・ド・パリ』が登場した。つまり、随分後の時代まで、外国人と日本人は生活域を別にしていた。さて、もとの時代に戻り、開港の頃の話を続けよう。今の横浜スタジアムのある一帯は、大規模な遊廓であった。港崎(みよざき)遊郭といって開港に伴いオランダの要請で開業したもので、僅か8年後には火災で廃業となる。そこに岩亀楼(がんきろう)という一際豪華絢爛な店があった。遊郭でも、外国人用と日本人用とで遊女が異なり、建物も別であった。才色兼備というのは、どの時代・どの人種であっても注目を集めるに十分な要因となった。男はそういった女に憧れ、権力者は何を措いても囲いたがるというのは、今の時代にも通ずる哀れなほどに進化のない世の常なのである。岩亀楼の喜遊(きゆう)とは、そういった才を備えた遊女であった。喜遊は江戸の町医者、箕部周庵の娘として育った。本名を喜佐子という。周庵は過激な攘夷論者であった。欧米列強諸国の侵略に抵抗し国を守ろうとする派閥で、開国を進めようとする幕府と相容れなかった。そういった背景のもと、周庵は水戸藩士によるクーデター、イギリス公使館討入り事件に関与した疑いで制裁を喰らうこととなり、生活の困窮の末、喜遊も遊廓に身売りすることとなった。父の思想を受け継いだ喜遊は、遊女に堕ちた身とは言え、外国人に愛想を振ることを良しとせず、日本人専用の遊女として外国人を客に迎えないことを確約の上での身売りであった。もともと生まれ育ちの良い喜遊は、琴・三味線・茶道・生花・和歌などの芸事に優れ、とりわけ多くの人気を博すようになるのである。その噂は外国人にも広まり、多くの関心を集める結果となり、彼女の身にはまたしても不幸が訪れた。幕府と関係の深い武器商人アボットに見初められ、遂にはお上から関係を強いられるという事態に陥ってしまうのである。しかし、喜遊はその命令に背き、武士の作法に則った切腹を図り、自らの意志を通したとされる。享年19歳。度重なる不幸にも屈することなく、強い意志を辞世の句に詠った。露をだに いとう倭(やまと)の 女郎花(をみなえし)ふるあめりかに 袖はぬらさじこのようなドラマ性からジャンヌダルクさながら攘夷派に祀り上げられ、いくぶんの尾鰭もあるようだが、今の横浜を築き上げた影の歴史として知られている。この物語に触発されて、私は『喜遊』というカクテルを創った。今の平和な世にこの物語が埋もれ失われてしまわないようにと想いを込めた。このカクテルは、バー・ペイネの開業以来、多くの御客様に愛され飲まれ続けてきた。数あるカクテルの中には、このように歴史を背負ったものもある。単に美味い不味いを楽しむだけでなく、歴史を紡ぐひとつの書籍のような価値を持ったカクテルもあるのである。そういったものを楽しむのもBARの醍醐味のひとつではないだろうか。この物語の舞台である岩亀楼は、横浜スタジアムに隣接する横浜公園に今も灯籠を残している。それは最早灯ることはないが、確かに存在したのである。(西宮聖一朗)