BARism

カクテルを読む!味や見栄えだけではない、カクテルの愉しみ。1859年6月2日。安政五カ国条約に基づき、横浜は開港した。これを機に、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの役人や商人が横浜に駐在するようになる。今の関内は外国人の居留地として栄え、日本人は関外という地域に追いやられた。この頃は圧倒的に関内地域がハイカラであった。外国人と日本人は、居住地域も生活レベルも、きっちりと分けられていた。余談として少し後の話であるが、日本で最初のBARはこの地域で外国人相手の商売として誕生した。1890年の関内、現ニューグランドホテルの前身に位置付けられている横浜グランドホテルの新館にバー『シーガーディアン』が設置され、さらに後の1923年(関東大震災直後)には、関外(今の伊勢佐木町辺り)で、外交官であった田尾多三郎が世界を見聞してまわり開業した『カフェ・ド・パリ』が登場した。つまり、随分後の時代まで、外国人と日本人は生活域を別にしていた。さて、もとの時代に戻り、開港の頃の話を続けよう。今の横浜スタジアムのある一帯は、大規模な遊廓であった。港崎(みよざき)遊郭といって開港に伴いオランダの要請で開業したもので、僅か8年後には火災で廃業となる。そこに岩亀楼(がんきろう)という一際豪華絢爛な店があった。遊郭でも、外国人用と日本人用とで遊女が異なり、建物も別であった。才色兼備というのは、どの時代・どの人種であっても注目を集めるに十分な要因となった。男はそういった女に憧れ、権力者は何を措いても囲いたがるというのは、今の時代にも通ずる哀れなほどに進化のない世の常なのである。岩亀楼の喜遊(きゆう)とは、そういった才を備えた遊女であった。喜遊は江戸の町医者、箕部周庵の娘として育った。本名を喜佐子という。周庵は過激な攘夷論者であった。欧米列強諸国の侵略に抵抗し国を守ろうとする派閥で、開国を進めようとする幕府と相容れなかった。そういった背景のもと、周庵は水戸藩士によるクーデター、イギリス公使館討入り事件に関与した疑いで制裁を喰らうこととなり、生活の困窮の末、喜遊も遊廓に身売りすることとなった。父の思想を受け継いだ喜遊は、遊女に堕ちた身とは言え、外国人に愛想を振ることを良しとせず、日本人専用の遊女として外国人を客に迎えないことを確約の上での身売りであった。もともと生まれ育ちの良い喜遊は、琴・三味線・茶道・生花・和歌などの芸事に優れ、とりわけ多くの人気を博すようになるのである。その噂は外国人にも広まり、多くの関心を集める結果となり、彼女の身にはまたしても不幸が訪れた。幕府と関係の深い武器商人アボットに見初められ、遂にはお上から関係を強いられるという事態に陥ってしまうのである。しかし、喜遊はその命令に背き、武士の作法に則った切腹を図り、自らの意志を通したとされる。享年19歳。度重なる不幸にも屈することなく、強い意志を辞世の句に詠った。露をだに いとう倭(やまと)の 女郎花(をみなえし)ふるあめりかに 袖はぬらさじこのようなドラマ性からジャンヌダルクさながら攘夷派に祀り上げられ、いくぶんの尾鰭もあるようだが、今の横浜を築き上げた影の歴史として知られている。この物語に触発されて、私は『喜遊』というカクテルを創った。今の平和な世にこの物語が埋もれ失われてしまわないようにと想いを込めた。このカクテルは、バー・ペイネの開業以来、多くの御客様に愛され飲まれ続けてきた。数あるカクテルの中には、このように歴史を背負ったものもある。単に美味い不味いを楽しむだけでなく、歴史を紡ぐひとつの書籍のような価値を持ったカクテルもあるのである。そういったものを楽しむのもBARの醍醐味のひとつではないだろうか。この物語の舞台である岩亀楼は、横浜スタジアムに隣接する横浜公園に今も灯籠を残している。それは最早灯ることはないが、確かに存在したのである。(西宮聖一朗)