Peynet’s Schedule on Jun

▪️店休日

6日(木)、16(日)、17日(

月)、30日(日)

▪️イベント

21日(金)4th Friday Night Concert @S.Bar Peynet

※今月は都合により第3金曜日の夜となります。

22日(土)、23日(日)茅ヶ崎映画祭にて、カクテル『雪国』提供 @ハスキーズギャラリー

30日(日)雨宮門下生演奏会にて、モーツァルトのクラリネットコンチェルト第1楽章演奏 @大和市文化創造拠点シリウス

BARism

カクテルを読む!味や見栄えだけではない、カクテルの愉しみ。1859年6月2日。安政五カ国条約に基づき、横浜は開港した。これを機に、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの役人や商人が横浜に駐在するようになる。今の関内は外国人の居留地として栄え、日本人は関外という地域に追いやられた。この頃は圧倒的に関内地域がハイカラであった。外国人と日本人は、居住地域も生活レベルも、きっちりと分けられていた。余談として少し後の話であるが、日本で最初のBARはこの地域で外国人相手の商売として誕生した。1890年の関内、現ニューグランドホテルの前身に位置付けられている横浜グランドホテルの新館にバー『シーガーディアン』が設置され、さらに後の1923年(関東大震災直後)には、関外(今の伊勢佐木町辺り)で、外交官であった田尾多三郎が世界を見聞してまわり開業した『カフェ・ド・パリ』が登場した。つまり、随分後の時代まで、外国人と日本人は生活域を別にしていた。さて、もとの時代に戻り、開港の頃の話を続けよう。今の横浜スタジアムのある一帯は、大規模な遊廓であった。港崎(みよざき)遊郭といって開港に伴いオランダの要請で開業したもので、僅か8年後には火災で廃業となる。そこに岩亀楼(がんきろう)という一際豪華絢爛な店があった。遊郭でも、外国人用と日本人用とで遊女が異なり、建物も別であった。才色兼備というのは、どの時代・どの人種であっても注目を集めるに十分な要因となった。男はそういった女に憧れ、権力者は何を措いても囲いたがるというのは、今の時代にも通ずる哀れなほどに進化のない世の常なのである。岩亀楼の喜遊(きゆう)とは、そういった才を備えた遊女であった。喜遊は江戸の町医者、箕部周庵の娘として育った。本名を喜佐子という。周庵は過激な攘夷論者であった。欧米列強諸国の侵略に抵抗し国を守ろうとする派閥で、開国を進めようとする幕府と相容れなかった。そういった背景のもと、周庵は水戸藩士によるクーデター、イギリス公使館討入り事件に関与した疑いで制裁を喰らうこととなり、生活の困窮の末、喜遊も遊廓に身売りすることとなった。父の思想を受け継いだ喜遊は、遊女に堕ちた身とは言え、外国人に愛想を振ることを良しとせず、日本人専用の遊女として外国人を客に迎えないことを確約の上での身売りであった。もともと生まれ育ちの良い喜遊は、琴・三味線・茶道・生花・和歌などの芸事に優れ、とりわけ多くの人気を博すようになるのである。その噂は外国人にも広まり、多くの関心を集める結果となり、彼女の身にはまたしても不幸が訪れた。幕府と関係の深い武器商人アボットに見初められ、遂にはお上から関係を強いられるという事態に陥ってしまうのである。しかし、喜遊はその命令に背き、武士の作法に則った切腹を図り、自らの意志を通したとされる。享年19歳。度重なる不幸にも屈することなく、強い意志を辞世の句に詠った。露をだに いとう倭(やまと)の 女郎花(をみなえし)ふるあめりかに 袖はぬらさじこのようなドラマ性からジャンヌダルクさながら攘夷派に祀り上げられ、いくぶんの尾鰭もあるようだが、今の横浜を築き上げた影の歴史として知られている。この物語に触発されて、私は『喜遊』というカクテルを創った。今の平和な世にこの物語が埋もれ失われてしまわないようにと想いを込めた。このカクテルは、バー・ペイネの開業以来、多くの御客様に愛され飲まれ続けてきた。数あるカクテルの中には、このように歴史を背負ったものもある。単に美味い不味いを楽しむだけでなく、歴史を紡ぐひとつの書籍のような価値を持ったカクテルもあるのである。そういったものを楽しむのもBARの醍醐味のひとつではないだろうか。この物語の舞台である岩亀楼は、横浜スタジアムに隣接する横浜公園に今も灯籠を残している。それは最早灯ることはないが、確かに存在したのである。(西宮聖一朗)

BARism

【男は黙ってジャックローズ】

男酒・女酒、というものがある。

今時のいい加減な団体からしたら、格好な炎上の餌食となろう台詞だが、やはりBARというところは洒落た男と女でありたい場所であるのだ。

私は『ジャックローズ』というカクテルが好きで、これほどセクシーな男酒はないと思っている。1900年代初頭に生まれた、美しい朱色のクラシックカクテル。一見して、細い女の指先に似合うように思われるだろうが、これは不恰好な男の手に握られる一輪の薔薇なのである。以下に、ジャックローズに纏わる話を幾つか書き連ねようと思う。

1900年代初頭のニューヨーク。大恐慌に繋がる不景気の真っ只中。マフィアの稼ぎの多くが違法な酒場や賭場が中心であった頃。暗黒街と呼ばれた物騒な地域の違法カジノのギャンブラーであった男が、ジェイコブ・ローゼンツァイク(1876-1947)という。

東部を仕切っていたレノックス街のギャングと繋がりをもち、1912年の警官殺し、ローゼンダール殺人事件にも関与したといわれる札付きである。その彼が愛した酒というのが、アップルジャックを使ったカクテルで、彼のその街での通り名『ジャックローズ』がその名になったという。不穏な時代に、金持ちを招き、警察の目を掻い潜りながら酒と博打を供する。カウンターで一輪の薔薇を携えた彼の姿を想像してみる。ハードボイルドというやつか、ジャックローズというカクテルは男の浪漫を擽ぐるわけである。

もうひとつの由来話がある。それは、このカクテルの美しい色合いから。ジェネラルジャックミノーという薔薇の品種(仏/1853)がある。その色合いを模したというのだ。さて、次はこの薔薇の話に移ろう。この名は、ナポレオン戦争時、義勇兵を統括した将軍の名、ジャン・フランシス・ジャックミノー(1787-1865)から命名されたという。

ナポレオンに忠誠を誓い、エルバ島の幽閉から帰還した際には槍騎兵を組織したという。ナポレオン最後の戦い、ワーテルローの前哨戦であるカルトブラで輝かしい戦績を上げた。ナポレオン失脚後も、バル・ル・デュックに製糸工場を開き、敗フランス軍人の職の世話をしたという。薔薇の命名が将軍の生前であったことが、その人望を表しているように思う。使命に賭した男の心意気に飾る花。無骨な指にこそ映えるというものである。

カクテルの普及は、しばしば文学作品に活路を見出す。酒飲みに知らぬ者はいない文豪ヘミングウェイの代表作『日はまた昇る(1926)』では、主人公の新聞記者がパリのホテルのBARで女を待つ、その時にオーダーしたのがジャックローズであった。時代は第一次世界大戦の頃。やはり背景には不穏な時代が付き纏う。

最後に、レシピ上の余談をひとつ。一般的に、日本のレシピでは、カルバドスにライムジュースとグレナデンシロップというのが基本とされる。しかし、ローゼンツァイクもヘミングウェイも、ライムジュースではなくレモンジュースで表記しているのである。きっとジャックローズが日本に紹介された頃、カクテルというものは高価で成功の証とみられ、より高価な食材を使うことに価値があったのであろう。戦後復興期の浪漫である。そんな見栄張りもまた、男酒であるように思う。

長い蘊蓄はさて置き、男は黙ってジャックローズ、なのである。(西宮聖一朗)

Peynet’s Schedule on Mar

◾︎店休日◾︎

3月14日(木)、3月17日(日)

通常営業は、20時ー翌2時となります。尚、店都合による多少の変動は御了承下さい。

御予約・営業確認等は、0467-44-8350まで。

▪️4th Friday Night Concert◾︎

3月22日(金)21:30スタート

◾️ペイネの愉快な音楽隊-アマチュア演奏会-

3月31日(日)15:30-

入場:1,500円(チャージ・パンチカクテル1杯含み)

Peynet’s Schedule on Feb

◾︎店休日◾︎

2月17日(日)

通常営業は、20時ー翌2時となります。尚、店都合による多少の変動は御了承下さい。

御予約・営業確認等は、0467-44-8350まで。

▪️4th Friday Night Concert◾︎

2月22日(金)21:30スタート

【カクテルの夢-ラストワード-】

1919年から1933年にかけて、米国では永く奇妙な法律があった。禁酒法という。アルコールの製造・飲酒を禁ずる、というものである。民主主義というものは、時に奇妙な選択をする。原理主義の宗教団体の影響だとか、ドイツへの資金源を断つ為だとか、理由は定かではない。確かなことは、この時代、過去最大規模で飲酒量が伸び、マフィアの活動が目立った、ということ。

さて、通っぽい飲み手が頼むカクテルの多くは、この禁酒法時代のものである。モグリの酒場であったり、ヨーロッパに渡ったバーテンダーによって生み出された。

ラストワード、というカクテル。

ジン、マラスキーノリキュール、シャルトリューズヴェール、ライムジュースを同量でシェイクしてつくるものである。

このカクテルはこの時代のほんの少し前に生まれた。デトロイトのアスレチッククラブのメニューで、当時、最高額で提供された高価なカクテルであったらしい。ここはオリンピック選手も利用していた由緒あるプライベート社交クラブであるようだが、土地柄か禁酒法時代にもしっかりカクテル提供をしていたらしい。当時は粗悪な密造のバスタブジンを使っており、アスレチッククラブでは現在でもその名残りとして、ウォッカにスパイス・ハーブ・シトラスを漬け込んだものを使っているとか。

このカクテルが広まる最初の要因となった人物、フランク・フォガーティという。彼は喜劇パフォーマーで、ラストワードを愛飲していたことで有名であった。彼は歌や朗読を演じた。仇名は、ダブリン・ミンストレル。ダブリンの吟遊詩人、といったところか。故郷のアイルランドとパフォーマーという仕事に誇りを持っていたのだろう。彼は仕事終わりのラストワードをこよなく愛したそうである。これで今日の言葉(仕事)は仕舞い。なんとも気の利いた一杯だろうか。本物のカクテルというのは、言葉遊びでもある。人格を有し、意味を成す。洒落た飲み手あってこそ活きる価値がある。

ラストワードは割り合い忠実に当初のレシピが守られ、幾つかのヴァリエーションを残しながらも暗雲の時代を生き延びた。禁酒法時代も終焉を迎えカクテルも自由を取り戻すと、1951年に出版されたカクテルブックで初めてラストワードの記載が見られた。暗雲の時代に生まれ、山あり谷ありの人生を歩んだラストワードは、確固たる市民権を得たのである。が、どれだけ優れたレシピであろうと多くは時代の流れで忘却へと追い込まれてしまうのが世の常である。

しかし、市民権というものの強みたるや!

半世紀近く経た2004年、シアトルのジグザグカフェのバーテンダー、マーレイ・ステンソンが先のカクテルブックからラストワードを見つけ出し、店のメニューに加えたのである。さらに翌年、ニューヨークのペグクラブの女性バーテンダー、オードリー・サンダースによってシアトルタイムズ紙で紹介されることとなる。

彼女曰く、ラストワードは切れ味のある完璧なバランスをもったカクテル、とのこと。これらがきっかけとなり、近年の回帰主義的な流行も追い風で、ラストワードは再び世界的な注目を集めることとなったのである。

デトロイトで生まれ、シアトルで甦り、ニューヨークから世界に広まった、ラストワードというカクテル。

しかし、残念なことに、私の街ではそれでもラストワードの知名度は、ほぼない。本物のカクテルの夢というものは、洒落た作り手と飲み手を欲しているのである。(西宮聖一朗)

【Peynet’s Schedule on Dec.】

◾︎店休日◾︎

12月11日(火)、12月16日(日)、12月31日(月)

通常営業は、20時ー翌2時となります。尚、店都合による多少の変動は御了承下さい。

御予約・営業確認等は、0467-44-8350まで。

年明けは、1月2日(火)からの営業となります。

▪️4th Friday Night Concert◾︎

12月21日(金)21:30スタート

▪️久保田元気の朗読会◼︎

12月30日(日)21時スタート

《宮沢賢治を詠む》

プランターズパンチ彼是

Tikiカクテルの起源にもあたるであろう一杯。『プランターズ・パンチ』という。今で言うTikiカクテルというのは、ドンビーチやトレーダーヴィックスのゾンビカクテルやマイタイカクテルに始まる。1930〜1940年代頃の話である。Tikiというのはポリネシア文化における女神の名前から転じて、ハワイを代表とする南国をイメージしたカクテルや店作りを総じて表現している。上記ふたりのバーテンダーは、そういった意味でカクテル作りや店作りを実践した。が、あくまでポリネシアの“イメージ”、である。Tikiカクテルの殆どはラムをベースとするが、ポリネシア文化圏でラムの製造は盛んではない。Tikiカクテルの祖、といえるふたりのバーテンダーは、それぞれカリブ海域でラムを学んでいる。それがのちにTikiカクテルを作るうえで土台となったという訳である。さらに付け加えるならば、ふたりが手掛けた料理も実はポリネシアというよりは中華であった。この適当さも、ひとつの面白味と捉えた方がバーを楽しむには向いている。さて、カリブ海域はラムのメッカであり、故郷である。大航海時代に、黒人奴隷の悲劇と海賊の暗躍によって築き上げられた。正確には、まず始めにネイティブ・アメリカンの犠牲が先行しているのであるが、ここでは割愛する。2010年頃だったか、バー業界でながく廃れていたTikiカクテルが突然再燃した。世界的な動きである。突然Tikiという言葉が広まったものだから、誰も意味を知らない。挙句、NeoTikiなどのワードが現れ、都合の良い定義がなされた。私の記憶に残る限りは、①ラムをベースとする、②フルーツをふんだんに使う、③大容量である、④南国っぽい、⑤海賊っぽい、⑥遊び心のあるネーミング、⑦火を使うと盛り上がる、⑧音楽はレゲエ、といったところだったろう。今から思えば、茶番である。こういった拡大解釈の中で、『プランターズ・パンチ』はTikiカクテルとして立ち位置を確立している。もとい、ドンビーチもトレーダーヴィックスも、きっとプランターズ・パンチを学んだ上にTikiカクテルを生み出したことであろう。証拠に、ふたりのオリジナルレシピによるプランターズ・パンチも存在する。プランターズ・パンチの詳細はあまり知られていない。資料もまちまちなことを言っており信憑性に乏しい。レシピも多数存在して掴み所がない。もともと労働者の飲み物だったようで、自然発生に近かったのかもしれない。なので、ここでは紙面の証拠を追うに留めておく。取り敢えず、発祥はプランターズホテル(現プランターズハウス)といわれている。由緒を示す余談であるが、バーテンダー界で“プロフェッサー”ともいわれているジェリートーマスもかつて働いていたようで、かのトムコリンズ・カクテルもここの名物だと言い張っている。さて、プランターズパンチに関する最も古い文献は、1878年に英国の週刊誌Fanに掲載された記事である。そこでは、レモン:1、シュガー:2、ラム:3、水:4のレシピで紹介されている。ドンビーチがゾンビーカクテルを発表する60年も前のことである。30年後、1908年には米国でニューヨークタイムズにも紹介された。この時のレシピは、酸味と甘味のバランスが逆転され、幾分さっぱりしたものになっている。が、然程の変化がないことが興味深い。10余年後、米国は禁酒法時代に突入し、カクテルは全盛期を迎える。そこで様々なヴァリエーションが生まれ今に至る訳である。サボイカクテルブック版、ドンビーチ版、トレーダーヴィックスバーテンダーズガイド版など。特にトレーダーヴィックスのレシピから、グレナデンシロップやホワイトキュラソーなどが加えられ、現在のTikiカクテル風な仕上りになっている。レシピの変容とカクテルの隆盛の相関がわかりやすく示された証拠のひとつである。どのレシピを扱うかを指標に、バー巡りを楽しまれたら幸いである。(西宮聖一朗)